創業者の独り言

Words of thanks

感謝の言葉

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今年で創業53年目に入りました。沢山の方々のお力添えで恙なく過ごせてこれた事を大変有難く心から感謝しております。
法政大学経済学部を卒業後、技術を身に着けたくて自動車のほか神戸製鋼製の建設機械も整備していた国際自動車工業(株)(当時)に入社。ジーゼルエンジンの整備士となったあと、建機とコンプレッサーの工務係を担当しました。ここで「コベルコのコンプレッサー」(当時は神戸製鋼製コンプレッサー)との出会いがあり、また独立開業のきっかけとなりました。
当時は主流であった油圧機器から空圧機器への変換期であったのでしょう、大手会社の工場では大型のコンプレッサーの需要が拡大しており、メンテナンス要員が逼迫しておりました。そのため北は北海道から西は京都まで文字通り飛び回っていました。
当然乍ら当時大型のコンプレッサーを導入するのは超一流会社ばかりで、お世話になった会社は日本精工(株)、いすゞ自動車(株)、日本専売公社(当時)の各工場や日本航空(羽田)、神戸製鋼所(藤沢)、大正製薬(大宮)、本田技研工業(和光)、三菱重工(相模原)、光洋精工(当時)、菊池プレス工業(当時)等 現在でも、この殆どの会社で継続してご用命いただいております。
ここで忘れてならないのは岡本商事株式会社のご恩です。お聞きしたところでは、故岡本幸助社長は当時日本精工(株)の本社で総務課長をされており、前橋工場の建設に携わり、茅ケ崎のご自宅から前橋まで通勤されたとの事です。そして定年退職後に神戸製鋼製コンプレッサーの販売を手掛けたいとの意向を当時、経団連の会長であり且つ日本精工(株)の社長であった今里広記社長に相談されて、今里社長の快諾と応援があったとの事。また岡本社長の弟さんが当時いすゞ自動車株式会社の社長であった関係で日本精工(株)関連といすゞ自動車(株)関連に神戸製鋼製コンプレッサーを多数納入された事でした。
この岡本社長に可愛がって頂いたことが今日の弊社の礎であります。
お陰様で日本精工(株)多摩川工場、いすゞ自動車(株)川崎工場(共に現在はありませんが)ここをスタートとして岡本商事株式会社解散後も当時からのユーザー様に取引の持続という恩恵を受けております。
零細企業でありながら、これまでご支持頂けたのは、独特のサービスシステムで(株)神戸製鋼所がバックに控えていて、有事や大きな案件は前面に出てくれること。突発的な修理は小回りが利く方が大切なこと。など、双方の利点の組み合わせをユーザーのご担当者が理解してくださっていたためと確信しています。大袈裟なものではありませんが、何よりも「担当者の身になって」対応する事に傾注してきました。
周知のごとく、工場にとって圧縮空気の停止は停電と同様なダメージになります。1分1秒を急ぐ担当者の身になれば自ずから状況に応じた「より良い、より早い」対策を取る事になります。
年が移り、機械も非常に良くなり、サービス会社も増え、携帯電話も普及して突発修理も変化してきました。サービスの重要性と処理能力のバランスを考え、関東地区の指定工場間で相互に応援しあう事を目的に「関東コベルコスクリューサービス会」を立ち上げたのも「担当者の身になる」ことを重視した結果でした。
本来ならば商売敵であるはずのところ、全国組織で活発に活動出来ているのは、神戸製鋼とコベルココンプレッサ独特のサービスシステムの良さに起因しているものと思います。
国内のサービスが充実しても輸出機のメンテナンスに支障をきたすようになり、貿易商社からの依頼でタイやフィリピンに講師役で出張するようになったあと、同じ理由で中国のサービス員養成に力を入れ始めました。零細企業のため研修生を導入できないので、北京に支社を作り、私の転勤命令で合計5名を来日させました。その結果、今ではそれぞれが中国の各地で立派に成功し頑張っています。
偶然の結果ですがコベルコフィリピンが出来た時、コベルコ北京が出来た時、既に弊社の拠点が存在していた事。更にはコベルコ上海や神戸製鋼圧縮機工場が開設された時には帰国した弊社社員の二名がお世話になることになった事。これらの事柄は惚れたコンプレッサーに惚れられたような因縁を感じます。
この辺りからコベルコのコンプレッサーと共に半世紀を生きてきた「コベルココンプレッサ-馬鹿」である事を再認識したものです。この頑迷な男に付き合ってくれた旧・現・新社員にも心から感謝しています。
まだ気力・体力は十分あると自負していますが、この「馬鹿」さを継承すべき格好の人材、南光康史君とこれからも、さらに数年間一緒に頑張っていけることもまた、稀有の幸せ者だと感謝している昨今です。
今後とも弊社と弊社社員を可愛がって下さる事を願っております。最後までご笑読頂き有難うございました。

押鐘 耕道